はじめまして!
カウンセラーの結木湊斗(ゆうきみなと)と申します。
まずは簡単なわたくしのプロフィールをご紹介します。
・幼少期から神経質、人見知り、恥ずかしがりやといった内向型かつHSP気質として過ごす。また、根源にはアダルトチルドレンがあった。
・10代から20代、内向型性格による対人恐怖と心身不調に苦しんだ青少年時代。
・公務員として勤めるも日々の抑うつと体調不良に苦しむ日々。
・結婚したものの、妻の躁うつ病のため地獄の結婚生活。
・離婚、そしてワンオペ育児。子供の不登校への格闘
・カウンセリングに出会い、困難なピンチを克服!
・自分と同じように苦しむ方々を支援するカウンセラーとして活動開始。
詳しいプロフィールは以下に紹介しています。
カウンセリングはカウンセラーさんとの相性が重要です。
カウンセリングをご希望の方は、ぜひ、詳しいプロフィールをお読みいただき
私の人となりやこれまでの経緯を知っていただけたらと思います。
神経質で人見知りの激しい幼少期
幼少期
夜泣きが多い子供で、神経質な子供だったと後に親から聞かされました。
幼少期からHSP気質として過ごしました。
幼少期から大の人見知りでした。
大勢の人の中にいると、視線が気になり
恐怖と不安で動作がぎこちなくなることがありました。
内向型性格による対人恐怖に苦しんだ少年時代
小学校時代
それなりに活発的だったこともありましたが、心の底では
人見知りで内向的な性格を気にしながら
他の子と容姿や性格を比較するようになっていいきました。
また、無意識に自分の内向型を恥じるようになり、隠そうとする傾向となりました。
一方、父親はわたしと対照的な性格でした。活動的・社交的であり
家にじっとしていないタイプでした。
無口で人見知りな私に対して、「もっと喋らないとだめだ、活発な子でないとだめだ」
と幼いわたしはダメ出しをされて育ったのです。
中学校時代
内向的で根暗な性格である自分への自己否定感がますます強くなってきた時期でした。
背が低い、顔に自信がない、といった外見も比較しては落ち込むことが多かったです。
とにかく学校生活に対しては違和感ばかりでした。
内向型から来る性格の暗さなど気質に対して、「暗いやつだな」と嫌がらせ
馬鹿にされることも多く、人にされたことをいつまでも引きずることがありました。
一方で、ひとりぼっちでいることを極度に恐れてしました。
この頃から、うつ症状も時々現れていました。
気分が落ち込んでいることを隠そうとするほど
ますますうつや気分が悪くなる悪循環にはまることが多かったのです。
高校時代
高校に入っても、相変わらず学校や友達関係になじめないため孤立しがちでした。
友達を作ろう、友達の輪の中に入ろう、としてもコミュニケーションが思う通りにいかず
みじめな思いばかりでした。
休み時間や昼休みの時間を持て余してしまったり、
とにかく学校にいる時間を過ごすことが苦痛でなりませんでした。
体の不調と抑うつに苦しんだ暗黒時代
大学時代
大学に入ってからは、中高生までのみじめな苦しい学校生活なんかもうイヤだ
今までの青春を挽回しようと!との意気込みが当初はありました。
しかし、意気込みに反して、対人恐怖や身体症状がさらに強く出始めました。
いままでと同様に大学生活になじめず、孤独な時間を多く過ごす、暗黒な学生時代でした。
このまま将来どうなってしまうのだろうという不安と絶望感にさいなまれる時期でした。
人見知りが強く緊張しやすいこんな性格ではいけない、暗い性格では人に受け入れられない
明るくなれないと人から好かれることはできない。
内向型は悪、外向型が善という偏った考えにおちいっていた時期でした。
抑うつ感や身体症状が、さらに心の落ち込みや自信喪失に追い打ちをかけていきました。
学生時代に内向型人間独特の傾向として自分にあったことといえば
・人との会話が続かない。会話のキャッチボールができない
・3人以上の複数の会話にはとくに入れない
・人の輪に入っても無口なまま過ごす
・ましてや女の子とは話せない。
・飲み会など大勢の場にいると恐怖を感じる
・人の目が気になって教室に入るのが恐怖
・飲み会、コンパに出席しても、まったく一言も話せず帰ったことも多数
といったことです。
この頃、はじめて精神科を受診しました。
「性格が暗いのでなんとかならないでしょうか?」
と藁をもつかむ思いで受診したのですが
暗い性格の人はよくいることだから別に気にしなくてもいい
と精神科医からは相手にさえしてもらえませんでした。
森田理論と本多信一さんとの出会い
大学時代
何とか苦しさから脱したい!ともがいていた矢先、たまたま森田理論の本に出会ったのです。
自分を救えるのは森田療法しかない!と無我夢中で本を読みました。
森田療法を勉強しあう自助グループもあることを知り、勇気を出して参加したこともあります。
この時を契機として「あるがまま」自分を受け入れるという考え方を
学ぶことができました。
また、同じ時期に内向型性格に悩んでいる若者に向けて
無料相談業や著書を出版をしていた本多信一さんに出会ったのはこの頃でした。
内向型人間の教祖ともいうべき本多さんの著書との出会いは
どん底であった学生時代の心の癒しでした。
これ以降、本多信一さんと森田療法はわたしの人生の中では
『あるがまま』が生きる力の支えとなる存在として続いていきます。
公務員として働くも激うつと病院回りの日々
20代
内定していた企業に就職するつもりだったのですが
故郷岩手の親と親類から「お前は長男だし跡継ぎなんだから、地元へ帰ってこい」
と言われたのがきっかけで地元の公務員試験を受け、合格したのです。
大学を卒業し故郷に戻ってからというものの
閉鎖的な田舎の独特な風土に居心地の悪さを内心感じていました。
住民同士、ガラス張りのようなプライバシーがない、常に監視されているような田舎社会。
あのどこそこの家の〇〇はな~〇〇なんだってよ、という噂好きな人ばかり。
みな一緒じゃないといけない、そうでないと村八分的な風土に強い違和感を持ちながらの
田舎生活でした。
一方で、30代が近づくにつれて徐々に結婚を意識し、結婚に対する焦りもありました。
女性との付き合い方がほとんど分からず、女性との会話もうまくできなかったので
女性と知り合ったとしても関係を進展させることが難しかったのです。
「長男だから早く嫁もらえ」と田舎独特の空気や慣例に気持ちが流されていました。
結婚しなければ一人前ではない、という妙なプレッシャーをかけていたのです。
妻の躁うつ病と地獄の結婚生活
そんな中、たまたまのご縁があり、職場の同僚女性と交際し結婚することができたのです。
しかし、結婚しなければ一人前ではないという田舎の風潮に流された感があり
親・親類の期待に応えなければらないといった他人軸での結婚でした。
結婚したことが嬉しいというよりも、結婚生活ができるのかどうか嫌な予感がありました。
予感が的中したのか、結婚してはじめて妻は双極性障害をもっていたことを知りました。
妻の父親がアル中のため母親に暴力をふるうといった家庭内暴力がある中で育ってきたことから
幼少期の頃から精神的に不安定な女性だったのです。
結婚による親類の付き合いや周囲の環境からストレスを受けることによって
妻はしだいに躁鬱の病状が激しくなっていきました。
ヒステリーとなると物を投げつけたり、わたしに手をあげるようになったのです。
一方、尋常とはいえない妻からの束縛された生活もあって
まるでいつも牢獄の中にいるような不自由を結婚生活に感じていました。
結婚して5年後に出産しましたが、出産後は産後うつも重なり
さらに妻の躁鬱やヒステリーはエスカレートし
生まれたばかりの子どもの子育てすら難しい状態になりました。
わたしが妻の代わりに育児をしなければならなかったため、数カ月限定ですが
育児休暇を取得したのです。
はじめてのカウンセリングに思わず号泣!
妻が通院していた精神科に付き添いで行った際
あるとき夫としての立場で私だけカウンセリングを受ける機会がありました。
付き添いだけであったはずが、家族として初めてのカウンセリングを受けてみて
まさに救われた!という経験をしました。
苦しみと本心を聞いてもらっているうちに
今まで妻との関係は共依存状態であったことにはっと気付き
カウンセラーの前で号泣してしまったのです。
本当にむせび泣きでした。
この時、カウンセリングを受けなかったら、と思うとぞっとしてしまいます。
その日を境に、自分のためにカウンセリングを利用する機会が多くなりました。
カウンセラーに頼りたい!助けてもらいたい!
そう思いながらカウンセリングを続けたのです。
ついに離婚。ワンオペ育児への突入
40代
子供が保育園に入っても、なお妻の病状は以前として改善せず
喧嘩と口論が絶えない生活でした。
子供の前で元妻が私に手をあげるなどの逆DVも頻繁になり、
それを見ている子供が泣きだすなど、子供に与える影響はよくなく、
これではまずいとの思いから離婚を決断しました。
子供の養育については元妻に養育能力がないと裁判所の判断により
私が親権を受けることになったのです。
それ以来、現在まで11年間シングルファザーとしてワンオペ育児を続けてきました。
ワンオペ育児の内容には
学校のPTA活動や授業参観、入学式・卒業式などの学校行事にへの出席。
学校の体育祭や文化祭への応援。
子供が病気になったときの看護や通院の付き添い。
いっさいの家事や買い物
などといったことで、まさに孤軍状態でした。
再婚を目指すも、婚約破棄と心の傷
できればもう一度再婚したい、との思いから婚活を始めました。
ここでもご縁があって遠距離の人と交際することになりました。
しかし、結婚を約束し家族ぐるみで6年間交際をしていたましたが
突然、相手から一方的に婚約を破棄されたのです。
わたしは再び心に深いダメージを負いました。
その傷ついた心が立ち直るまでかなりの時間を要しました。
この婚約破棄によるダメージがあった時にも、やはり支えとなったのはカウンセリングでした。
不登校との格闘の日々
子供が小学校5年生の頃から生き渋りがはじまっていましたが
中学に入ってから学校を休む機会が増え始め
そして、中学2年の春から完全不登校となりました。
学校へ行かず、子供は家に閉じこもって、外出を一切しない日が続いたのです。
中学3年の受験時期になると、ようやく高校受験に向けて動き始めました。
そして、なんとか高校に進学したものの、高校1年でもさらに不登校が再発しました。
子供が不登校だった当時、悩んだわたしは
藁をもすがる思いであちこちの専門家をあちこち尋ね歩きました。
◇担任をはじめ学校と何度も相談した
◇スクールカウンセラーと定期的に面談した
◇スクールソーシャルワーカーと連携した
◇精神科に子供を連れて行った
◇不登校に関する書籍を必死で読みまくった。
このように、専門機関やカウンセラーと携わったり学んでいました。
必死に不登校をなんとかしたい!と奔走していたのですが
あるときハッと気付いたのです。
「学校がすべてではない」
「学校には必ずしも行く必要はない」
「自分は子供を信用してなかったのかもしれない・・」
「子供を学校に行かせたいのは私の独りよがりなんだ・・」
子どもをただ黙って見守るだけでいい。
子どもを信頼さえすればおのずと道は開ける、と気付いた私は
子供に寄り添う姿勢を大切にしました。
すると、わたし自身の心に光明が差し
心が軽くなるとともに、子供との関係もよくなり
子供にも元気が出てきたのです。
そして、学校に登校する日が増えるようになったのです。
過去から現在。そして未来へ
どんな理不尽な出来事の状況下でも、
乗り越えるための支えとなってくれたのは、やはりカウンセリングの力でした。
わたしの人生を振り返ってみると、数々の試練や壁にぶつかったときは
必ずといっていいほどカウンセラーとの出会いがありました。
カウンセリングの力が、人生の数々のピンチからわたしを救ってくれたのだ
と確かに実感しています。
カウンセラーとの出会いがあったからこそ、いまのわたしがある
と言っても過言ではありません。
そして、自らもカウンセリングや心理学、メンタルトレーニングを勉強し
カウンセラーとしての道を歩んでいます。
私のような内向型・HSP気質、アダルトチルドレンによる波乱の人生をくぐり抜けてきた経験を活かし
苦くて辛い人生を過ごしている人たちの力になりたいのです。
東北の中で、とくに岩手県は自殺率が全国ワーストです。
できることなら自殺の少ない社会をつくり、全国ワーストを返上させたい
と思うのですが、私だけで地域社会全体を変えるような力は今のところありません。
しかし、悩んでいる方や心が苦しんでいる方、誰かのために辛い思いをしている方が
問題が解決され、ありのまま楽に生きていくことをお手伝いする
ことは大いに可能です。
内向型性格の方、HSPの方が堂々と気兼ねなく、自分軸を持ち
ありのままの自分を肯定しながら、自らの気質にいっさいの気兼ねなく、楽に生きていくことができる
そんな地域社会を作りたいと思うのです。